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贅沢な生活

一杯の贅沢

【前回の「面接試験」から続く】前は、行きつけの居酒屋、寿司屋、ソバ屋、ラーメン屋なんかがあった。だいぶ前には、天ぷら屋、ウナギ屋なんかもあった。しかし今は、行きつけの床屋しかない。生まれ育った街には未だ「行きつけ」があり、昔と同じ味を楽しみ、コーヒーを飲んで帰る。40年同じなんだから大したものだ。歳を重ねても人の好みというのはそれほど変わらない。若い頃の環境は後々の好悪判断のベースになるものだ。それが歳とともにますます安心と贅沢の規準になってくる。

 贅沢と書いて、自己満足と読みたい。「今日は贅沢したなあ」は、たいてい財布からお金を出した時の感情がだが、消費とは限らない。立男の思う贅沢とそは、衣食住に限らず、気持ちの良い、言葉だったり、工作だったり、絵だったり、空間だったり…その範囲は生活全体だ。いただいた1枚の葉書からそれを感じることもある。贅沢とは「こういう生活を送りたい」という漠然とした願いに対して、何かの幸運と拍子で偶然に出会える形と心だと思う。後から、ああいうことがあったから巡り会えたんだなあ、と振り返ることも楽しく。加えて、そういう生活にああでもない、こうでもないと言ってくれる隣人がいて成り立つ満足感のはずだ。思春期の身体の奥底から湧き出る欲望に対し何とかするための涙ぐましい努力、悪友との奮闘というかあがきが懐かしい。あれは、自己満足の意味も贅沢の正体もわかならなった頃の、贅沢な時間の使い方だったかもしれない。

 さて、立男がこれから生きていく道は明確だ。残された全人生をそれはそれは贅沢に送ることに尽きる。何人も邪魔をさせない(誰も邪魔してない…貯金通帳だけが邪魔してる…意外にママヨさんは応援している)隣人の小言もちゃんと聞く、開かれた自己満足、風通しの良い自己満足の道を歩きたい。最低限の社会的常識に抵触しないようにしつつ、嫌なことはせず、したいことだけやり、文句があったら…誰もいないところで叫ぶ…馬鹿野郎!。昨日、旧知の方から返答できない悲しい話聞き、つくづくそう思った。

■今日の一曲は「別れのサンバ」。これを聴いた時、坊主頭の立男は震えた。「オレより2つ上?作詞も作曲も演奏も歌も?」高1の頃だ。今だって震える。

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