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日常茶飯 続々

あるはずのところにあるはずのものが無い、探しながらこれは何かの間違いで明日になればそこに「どうかしました?」なんて気の抜けた感じで姿を表してくれるはずだ、なんてしょうも無い気休めしてもちっとも気は静まらない。
一番の不安は、元々のところから動かした記憶が全く無いこと。そろそろ来たか。スーパーから買ってきたタブを冷凍庫に保管したり、いただいた饅頭を下駄箱に格納して腐らせた10年前もなぜそうしたかの記憶が無く「そろそろ来たか」と笑ったが、今回のはそれと比べものにならない重要書類で一緒に探しているママヨさんの肩に力が入った角張った後ろ姿が事態の大きさを物語っている。
もしかしてこれですか、と少し掠れた声で封筒を掲げるママヨさん。それです、それですよと波風氏。第2候補の探し場所を再度確かめた結果の快挙(笑)。


初物の桃は波風氏、久しく我慢した花林糖と源氏パイはママヨさん。捜し物が出てきた嬉しさで「今日は大盤振る舞いの贅沢だ」と叫んだ買い物。なんて素朴でケチで愉快なお祝いなんだろうねと笑いながら冷たい黒豆番茶で駄菓子口に運ぶ波風夫妻。
幸せってこういうものだね。あって普通のことが無くなって急に価値を意識し悲しくなりそれが出てきて普通に戻るはずがそうでなく、爆発的に喜びが弾ける感じ。有るのが難しいことが何かの拍子に実現するから「有り難い」なのだが、幸せの本質がこんなだとすると、日常は不幸と幸福の半分半分、紙の裏表みたいなもの。そこらを感じ取れるかどうかが残りの人生を長く面白く暮らすカギかもなあ。

 


画像は、今は豪奢な赤い実になったヒペリカム。なかなか可愛いじゃないかと無骨な鉄瓶が思わず恋心を吐露したような感じ▼記憶は死に対する唯一の抵抗と生物学者の福岡伸一さん。だから記憶の喪失が恐ろしいのかなあ。完全に無くなれば本人にとっては幸せかもしれないが▼毎日欠かさず鉄瓶で湯を沸かして珈琲を飲み始めて3年。貧血と診断されなくなった。

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