カウンター

背中の快感

古いカーデガン

背中がかゆい時、ママヨさんに「やってくれよ」と頼むといつも嫌な顔される。指先ザラザラの手が「背中掻き用5本指」に実に適しているのに、ママヨさんはこの支援活動が大嫌いだ。背中にブツブツがあってキモチワルーなんて言う。「立男君の願いは、施設に行って専門家じゃなければ叶えられないね、ホホホッ」なんて笑う。立男にはこれっぽっちも嫌らしい気持ちなんかない。「ああ、そこそこ」なんて言いながら、痒いところに手が届いたときの醍醐味を味わいたいだけだ。服の上からではまさしく隔靴掻痒で快感も半分だ。「孫の手」は、固いし冷たいし、何よりも共感的人間関係の喜びと違う。この清く貧しく美しい願いがなぜキモチワルーなんだ?とか思いながら、まことに自分本位の快楽だもな。指先は、別に気持ちよくないもんなあ。0対百の快楽度合いだもなあ。

 そういうママヨさんが昨日、背中の垢すりをしてくれた。呼べばやってくれるのはわかっているが、家事の最中か休息中だから気が引けて頼んだことがなかった。風呂嫌いの立男を誘導する餌だと思うが、寿命の話なんかをこの頃何回かしたせいかもしれない。直接、肌に指先が触れないのが抵抗を薄れさせるのかもしれない。
今朝、除雪から戻ってきたら、「がんばったね」なんて言うから「昨日の要支援活動で軽くなった背中が俺を外に押し出したのさ」なんて調子よい言葉が口をついた。それは実感だった。

■先日亡くなったピート・シガーさんの「花はどこへ行った」。こんなのをゆっくり聞いてゆっくり歩いてきた道を思い出し、いまどのへんに立っているのかを考えるのも大事なんだろうと思う。

http://booklog.jp/users/namikazetateo