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「老人ごっこ」の思考と技術2

(前回から続く)

再就職辞めて5年。電話も鳴らず、訪れる人もいなくなるだろうと思ったがそんなことは無かった。減ったが来る人は来るのだ。
年賀状も年末に出していたのを止め、1月元旦に来たのに返信するように変えた。これも減らすのが目的だったが半減で一言書き添えてあるのが増えた。
波風食堂で新しい出会いも出来た。売りが三密だからコロナ休業せざるを得ないが。

 

老人暮らしというのは、孤独をじょじょに飼い慣らすと言うか、来たるべき日を直視し、笑って逝くための準備期間だと思う。自分で出来ることは自分でやれる技術取得期間。家事手伝い人から家事共同者としてママヨさんと本当の親友どうしになるための勉強期間。それと同じ価値として、一人で遊べるし誰かと一緒でも遊べる人間になりたい。遊びはもちろん自分のやりたいこと、間違っても嫌なことはしない。本当に好きな「ひと・もの・こと」に耽溺しても迷惑をかけなかったら許されるのが「老人ごっこ」の特質だ。
こう考えると、「老人ごっこ」とは人生最後の自立の機会。「ごっこ」は、自分の心や体の変化を他人ごとみたく面白がりたいからだ。「学校ごっこ」の「ごっこ」も仕事と自分をどう客観的に評価するかの体験だったからだ。思うに、仕事に遊びを見つけ続ける機会だったなあ。

 

これから少しづつ「葬式」や「墓」、「遺しておく物」を考えて楽しみたい。故小沢昭一さんが、自分の葬式のことを考えると楽しくなれるとエッセーに書いていた。最終的な自立を目指すのにここは避けられない。自分不在だが自分の思いというかアイデアが詰まった最後のイベントで家族が楽しんでもらえるならとても幸せなことだろう。

(時期未定だが、「『老人ごっこ』の思考と技術3」を掲載したい)

http://booklog.jp/users/namikazetateo