カウンター

見栄をはる

一昨日の糸井重里氏のコラム(「ほぼ日」)で読み、『見栄』をはらない難しさを思う。自分から能動的に「こういう人に見られたい」でなく、「こういう人に見られたくない」という受動的な見栄から自由になる難しさのところで立ち止まる。

 

見栄というのは自分のリアルな価値を嵩増しして他人に良く見せるセコイ行為だが、そういうのとは自分は違うと作務衣着たり仙人気取りして自由人を装うのも見栄だと言う。見栄は想像以上に広く深いのだ。

世間的に立派そうな人が金品に惑わされなくても「私、ちょっと上にいます」みたいな肩書きや褒状にはからっきし弱いのは昔から言われている。

 

自分が「そうなりたい」「そう思われたい」という願望が見栄の根源。夢や希望があるから人は楽しく暮らせるのだから見栄に有用性はあるのかもしれない。問題なのは、周囲を辟易させる迷惑な見栄。見栄を拡大させそれを商売にしてしまった情けない先生がいる。また、見栄に弱い人間性を利用して、歯の浮くような世辞を連発して自分を優位にしたがる先生もいる。平気で嘘をつくのが共通している。

 

昨日打ったらコロナワクチンNO.4で微熱気味、だが明日昆布干しやるつもり。無謀というか馬鹿なのだが、見栄とプライドは紙一重

http://booklog.jp/users/namikazetateo