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2度読みしたコラム

昨日の新聞(朝日朝刊)のコラム、裏ブログ的な話題じゃないし、長いが、気になるので書き残しておく。

 

政治家ではない人を「あの人は政治家だ」と言うとき、それは大抵ほめ言葉ではない。立ち回りがうまく、どこか信用のおけない人物像が浮かんでくる。評論家の故加藤周一さんが20年前、本紙連載の「タ陽妄語」でユーモアまじりにこう書いていた。〈庭の桜の木を切った少年が、親に叱られるのを怖れて、切ったのは自分でないと言えば、嘘である。切ったのは自分だと言えば、それがほんとうで、少年は正直である〉そして、〈そのときもし少年が「切ったという記憶はない」とか、「そういう質問に答える義務はない」とか、「誰が切ったかまは後世の歴史家が決定する問題である」などと言えば、それはごまかしで、少年には将来政治家になる資質が備わっているということになろう。〉 ※この段落全文、原文のママ


上記文章はコラム冒頭のだが、読者は例外なく某政治家を重ねる。この政治家をこういう俎板にまず載せて、公私混同、空疎な多弁、民主主義破壊を、小気味よく切っていく。後半でシェークスピアの言葉を引き「持つべきは敵」を語る。
〈だってさ、おれをほめあげてばかにするが、敵は正直にばかだと言ってくれるんでね〉。続けて〈つまり敵によっておのれを知り、友だちによっておのれを欺くってわけだ〉(小田島雄志訳)。
このコラム、お題が『お友達より 持つべきは敵』。最後に「『私の責任において』の言葉に今なお信頼はあるだろうか。ご都合主義と『やってる感じ』で永らえてきた政治のツケが一気に回ってこないかを心配する」で終わる。ここが気になる(😄)。心配する?って、いったい何を?ここが実に意味不明。まさか、君が彼を心配する隠れポチなんてこと?まわりくどいこと書いているが。まあ、朝日だしな。

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