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贈られる哲学

今年最後の桔梗

この1週間に、薩摩芋や自家製の野菜(南瓜、じゃがいも、人参など)を人生の先輩3人からいただく。珍しい菓子を、教え子と妹夫婦から、展覧会でお花も3方からいただく。贈ったり贈られたりの流れの中で暮らしているから、これを重く考えすぎたり軽く扱ったりすると、次第に流れが滞ることになるだろう。歳重ねるほどもの貰うのは、接する方々が積み重なって増えるのだから不思議は無い。親切にしてもらうのは実に有り難いことだ。波風家は、どう考えても出すより来る方が多いようで申し訳ない気持ちだ。記録係のママヨさんとお礼係の立男君はその点で一致する。


哲学と言うほどのものでは全然ないが、ここらのことで、波風家のやり方みたいのがある。ママヨさんと立男君の対人関係の「らしさ」が凝縮されている気もする。日常では阿吽の呼吸で話しは決まる、暮らしの中の自然な流れで、衣食住の決めごとに似ている。贈りものの方は、誤解されたらいただいた方に失礼になるかもしれないので書かない。もらい方、というか「いただき方」(笑)だけ言葉にしてみたい。

お礼の報は、早めに書き言葉でする。これを長く続けていたら「波風家のやり方はそうなんだ」という感じになってきた。若者には、メールやラインもあるが電話は避ける。声を聞きたいという理由で、電話口に相手を立たせることは避けたい。電話嫌いとは違う。要件問い合わせは電話が便利なのは変わらない。
返礼品の場合は、送ってくれた相手が送った記憶が少し薄れそうな頃にする。あまり早すぎるのは、贈ってくれた人の心を十分に味わう時間を作らない、失礼に通じる気がしてしまう。ここらは、とても微妙なところだが、対人関係の肝のような気がする。ずうっと会わなくても、温かい気持ちが持続している人との関係というのはそういう繋がり方ではないのかなあ。相手に負担をかけない名人(笑)への道は難しい。この負担をかけない心というのは、贈る時の肝でもあり、凄い方は本当に凄い。人間性というか、潔よい生き方というか、そんなのもこんなところで如実に表れる。話変わるが、2人展に遠路はるばる来てくれ静かに帰られた真似の出来ない方々の心もこれと同じろう。真似は難しいが、心は学びたい。


※画像は、ママヨさんと波風氏に遊んでくれたモモちゃん。可愛くて賢い。「犬を飼う」のでなく「犬と暮らす」を妹夫婦と一匹の3人家族に垣間見る。

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