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永遠の高校生たち(2)

文体が非常にすっきりしている

(前号から続く)
 この題でブログ記事を書いたのは、前出「昭和三十年代の匂い」がきっかけだ。
 自分自身に対する年齢の感覚が実年齢より相当に若く、それがずうっと変わらないでいる不思議というか、中級老人に格上げされてもそれが変わらないので、虚実の違和感が際立ってきた。そこらの源流を遡ると、昭和30年中間から40年代中間の約10年間にヒットし、その末尾頃が高校時代なのだ。高3のマラソン大会がアポロ11号月着陸した日で、修学旅行最後の東京自由行動日には新宿駅学生運動で占拠され旅館に戻れない奴が続出した。

 「不思議」、「違和感」と書いたのは、「なぜ俺は、同年齢を見つけることができないのだろう?」と何となく疑問に思っていたからだ。逆に言うと、どの年代にも自分はしっくり当てはまらない感じがしている。桑田佳祐が年下とか、坂本龍一が同年齢とは全然思えない。彼れらはいつも歳上だ。そもそも、波風立男氏は他人と自分との年齢差を感じない気質なのだ。時間的観念というか、日時や曜日の感覚が見事に欠損している。「今日は何曜日?」「今日は何日?」の回答と失せ物探しの必要でママヨさんはこの世に存在している(嘘ですよ)そのせいかはわからないが、世代感覚のあやふやさが若い時にはこれが「生意気」、若くなくなると「偉そげ」に映ったかもしれない。まあどうでもよい話だが、社会生活上、特に教員生活の領域では、上下関係に心しないと意外なほど物事が円滑に進まないわけで、年齢に関係無く誠心誠意と相互信頼が最も重要と思いつつ、親と学校生活の教えに則り儒教的な礼儀作法を失しないよう暮らしてきたつもりだ。(もう1回だけ続く)

■「求む 100歳まであと20年あまり。心豊かに生き通したい。世間話をしたり。食事をしたり。スポーツをしたり。希望の女性は電話ください。」の後に、電話番号(固定と携帯)と住所と氏名を明記した一昨日の地元新聞の囲み広告。ママヨさんは「何か侘しい」、「女性かい…」と立男氏。昔の高校生の「文通希望」みたいな、そうではないような。

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